
人生はかなしい、と思う。
決してペシミスティックにではない。
至極個人的に、思わず“くくく”と笑ってしまう些末なことの後ろ側にある、ちょっとしたかなしみや、さびしさを感じ取ること。その感じたきもちを、なかったことにしないこと。
かなしみやさびしさだけを掬い取って生きているわけではないけれど、そんな風に感じたこころを大切に日々を過ごしたいと、いつも思っている。
だから、人生は可笑しくて、かなしい。私はそう思う。
『
東京日記 卵一個ぶんのお祝い。』(
関連エントリ)を読んだあとにも感じたが、川上弘美のエッセイというのはとても地に足がついていると思う。“今、ここにいる自分”が過去を振り返ったり、“今、ここにいる自分”が何かを好きだと思ったり、“今、ここにいる自分”が何かを感じたりしている。そういう姿勢そのものがとても読んでいて安らかだ。
そして、描かれているのはとても些細なことなのに、極端に近視眼的なところがなく、でも、その描かれた小さなところにとても深く感じ入って、本を置いて考え込んでしまったりする。
全編を通じて安らかなのに、なんだか時折無性にさびしくなったり、切なくなったりする。
描かれているのが身近なことゆえに“なんだか体力の要るエッセイだなぁ…”と読んでいる最中は思ったのだけれども読み終えたあとは、ほんのりしたさびしさを含んだ安堵感が残る、充実した1冊だった。
中でも最も深く“そう!!”と思った“古池”。
そう。そうなのだ。別段何ということが可笑しくて仕方がなくて、“くくく”とひとしきり笑った後に哀しくなるあの感じ。なかなか人に理解してもらえないけれど、どうにも寄る辺なく切なくなるあの感じ。
私はどうにも“おうまはみんな”というあの歌が可笑しくて可笑しくてしかたがない。
だって可笑しいではないか。
“おうまはみんな ぱっぱかはしる ぱっぱかはしる ぱっぱかはしる”
既にここまでで“くくく”と笑いがこみ上げてくる。
でもここはまだ我慢できる。どうにも我慢できないのは
“どうしてなのか だれもしらない だけど おうまはみんな ぱっぱかはしる”
可笑しい。どう考えても可笑しい。“だけど”という接続詞の意味が通っているのか通っていないのかさっぱりわからない。わかるような気もするけどわからない。可笑しい。
でも、こらえきれずに“くくく”と笑った後、どうにもかなしくなるのだ。
実際“ぱっぱか”走っている馬は、人間が“どうしてぱっぱか走るのかしら”なんて考えていることなどものともせずに、たくましく、うつくしい肢体で悠然と駆け回っているわけだ。“ぱっぱか”と。
そこにはいくら考えても及ばぬ壁がある。とてもかなしい。
かなしいではないか。なんともやるせないきもちにすらなる。
“だけど おうまはみんなぱっぱかはしる”のだ。…やっぱり可笑しい。
(2番はもっとストレートに切ない。やっぱりこの歌は1番がすばらしいと思う。)
…私はこの歌の可笑しみを伝えようと、必死に書いているのだが“何言ってんの”という方が殆どだろう。実際、この歌で声を出して笑ってしまう人を私は自分のほかに1人しか知らない。(でも、そういう人が友にいることを私はとてもしあわせに思う。ありがとう。)
まあ、おうまがなぜぱっぱか走るのかはともかく、人生はかなしくて、可笑しい。そして更にせつなさと、しあわせとが綯い交ぜになってできている。だからこそ、小さなことに動いたこころをなかったことにしたくない。そんな風に思えるエッセイ集だった。こころがすかすかのスポンジのようになってしまったときにこそ、ぱらぱらとめくりたくなる、そんな1冊。
人生はかなしくて、さびしくて、可笑しくて、しあわせだ、と思うために。
[参考]
・
係占い (“カウンターの外側”に登場。私は学級委員だった。当たっている。)
⇒ 履歴書の書き方 (06/25)
⇒ 名無しさん2 (01/13)
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⇒ (06/14)