写真、萌、茶、読書。わんこと暮らしたしあわせな日々。雑多極まりない雑食系Weblog。
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・ 恩田陸『六番目の小夜子』
恩田陸『六番目の小夜子』
・恩田陸『六番目の小夜子』(amazon.co.jp)

どうしてそんなにも必死なのか、それを自覚しないままに必死に生きている瞬間があるのだとしたら、多分それは高校生という時期なのではないかなぁ、と思う時がある。
大好きな映画、中原俊監督“櫻の園”にも通ずるところではあるのだけれど、他愛もなくて、ゆるやかな日常の中で必死に自分の居場所を探している、そういう時期。

地方の進学校で、密かに受け継がれている“サヨコ”という不可思議なゲームと、3年に1度の“サヨコ”の年に現れた、謎の転入生・津村沙世子。その謎を探る関根秋。
彼らを中心とする、友情と恋愛と学園生活とミステリー。

特に中盤の文化祭のシーンは圧巻。
恩田陸らしいじりじりとした焦燥感のある演劇のシーンも勿論だが、クラスの出し物の準備のシーンも含めて、自分にも確かにあったはずの“今、この瞬間”というものを必死に生きている彼らがいとおしく思える。
“櫻の園”の“(櫻の園を上演する機会は)先輩たちには今年しかないんですよ!私たちには、来年しかないんです!”という科白を思い出した。

恩田陸特有の、最後にぱっと手を離されて、ややもすると消化不良感に陥る感じもあるのだけれど、私はあまりそうは感じなかった。(ネタバレ含むので、その点に関してはたたみます。)

しかし、何よりもこの本で一番参った!と感じたのは、関根秋のカメラに対する姿勢と、それに纏わる沙世子との会話。
「(略)写真撮るの好きなせいかもね。(中略)広い世界があって、俺はその世界の外側のファインダーのこっち側にいるって状態」
(中略)
「要するに、いつも第三者でいたいのね」(新潮文庫版 P110)
ぎくっとした。当然ながら、関根秋のように優秀な訳ではないが、秋が感じた気持ちと、沙世子が指摘したことがあまりにも正鵠を射ていたからだ。
沙世子はあの時、痛いところをついていた。(中略)自分の傲慢さ、薄情さ、小心さが、自分の撮る写真を通して他人にバレるのを彼は何より恐れていたのだ。 (新潮文庫版 P157)
…痛い。なんとも痛い。
でも、そのことを自覚した秋が撮った、沙世子の(ふくれっつらの)ポートレイトを見てみたい、と思うのは、きっと私だけではないはず。

関根家に関しては『象と耳鳴り』(関連エントリ)、『Puzzle』のほうを先に読んでいたので、秋の父、母、兄、姉は既に私の中で素敵な人物である、という揺るぎない印象だったのだが、秋もまた、素敵な人物であった。それにしてもまあ、すげぇ一家だよ、この家は…(笑)

全体的にはライトで少女漫画風な要素も含みながら、随所随所に“おっ”と思わせるところのある一冊。
恩田陸の作品群の中では、気軽に読む本としていいかも。
ドラマ化されたNHK版の“六番目の小夜子”もぜひ観てみたい。

以下ネタバレ。
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・ 谷川俊太郎『すこやかに おだやかに しなやかに』
谷川俊太郎『すこやかに おだやかに しなやかに』

うつくしくあること、正しくあることというのは、とても難しい。
けれどもせめて、こころだけは、すこやかに、おだやかに、そしてしなやかにありたい、と常に思っている。

だから、このタイトルを新聞の広告欄で見つけたときは心底驚いた。

常々、自分自身の書く文章は谷川俊太郎氏の影響を受けているなぁ…と思ってはいたけれど(実際指摘されることもある。それも、かなり前から。)、もはや生き方すら影響されているのか!と…。(まあ、受けているのも事実なのだが…)

谷川氏の言葉は、確かにやさしい。(そして時に厳しい。)
けれども眼差しはとても真摯だと思う。
真摯な眼差しで見た世界を、やさしい言葉で紡ぐということ。
真摯な眼差しで見た世界を、決して見捨てず、憎まないこと。
そうして、すこやかに、おだやかに、しなやかにあること。
谷川俊太郎、という人物の大きさを改めて知った。
(この詩集を読んだ後で、比較的若いころに書かれた作品を読むと少し驚く。これが年齢を重ねるということなのか…!と…)

こころの柔らかい部分に、そっと語りかけてくるようでいて、こころの柔らかい部分をぐっと掴まれるような、そんな詩集。ページ数も決して多くはないので、書店で見かけたらぜひ一読を。

ちなみにこの詩集で好きなのは“たったいま”と“すこやかに”。
“すこやかに満ち足りて”“安らかに生きていければ”いい。
そう思う…のだが、まあこれがなかなか難しいのだなぁ…。

(ついでに“死ぬことはこわくなくなる”ということに関しては、『空に小鳥がいなくなった日』収録の“つもり”のほうが、なんとなく自分の心情にしっくり来る気がするあたり、まだまだ青い、ということだろうな…。)

以下余談。
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・ 伊坂幸太郎『重力ピエロ』
重力ピエロ伊坂幸太郎作品を読むのは3冊目。
前半はとても面白く読んだ。…が、中盤以降“…え…それでいいの?”とちょっと首をひねりひねり読了した、というのが正直なところ…。

実は読了して数日経っているのだけれど、『グラスホッパー』(関連エントリ)、『ラッシュライフ』(関連エントリ)も読了直後は“…うーん…”とちょっと唸ったような気がする。でも、しばらく経つと、もう1回読んでみようかな、という気になってしまうのだ。

遺伝子、性犯罪、父の癌、そして泉水と春の兄弟。
連続放火とグラフィティアートとの関連性…。
テェマは非常に重い。でも、重すぎることなくストーリーは進む。
そして、重々しいテェマの中にある家族愛。

キャラクターはとても活き活きしていて、科白回しも軽妙。
…と、この軽妙さがどうも私は“…なんとなく合わないかも…”と読んでいる途中から思い始めてしまったのは何故か…としばらく考えていた。
ようやく思い当たったのは、多分出てくる泉水にせよ、春にせよ、その父親にせよ、彼らがみな“男の子”なのではないか、ということ。彼らのポジティヴさや、ちょっとした皮肉、信ずるものは疑うことなく最後まで信ずるという姿勢…そういうものはとても好もしいし、時に痛快だ。(彼らの父は勿論“父親”の部分も持ち合わせているけれど、私には“男の子”の部分のほうがずっと大きく感じられた。)

しかし、私は“男の子”であった経験がないし(当然だ)、年相応の部分から見え隠れするのではない“男の子”の部分には、ちょっとリアリティが感じられず、その違和感を感じ始めると青春小説的な科白回しにもちょっと“?”と思ってしまうのかもしれない。

対して、登場する女性は総じて“女の子”や“少女”ではなく、“女性”なのだ。
『グラスホッパー』『ラッシュライフ』でも共通して感じていた違和感でもあるのだが、おそらくこのあたりの対比にちょっとなじめないのかな…と思う。

この作品に限っていうならば、春は“少年”ですらなく“男の子”であり続けることを(出生のことなども含めて)本人自身が望んでいるのだろう。“最強の兄弟”である兄の泉水もそれを認めているのだから、もしかすると彼らは2人とも“男の子”なのかもしれない。
一方、最後に対峙する彼は“男性”でなのである。

…そういったことを考えてみると、何気ないようで、実は非常に巧妙な構成なんだな、と思ってしまう。
そして最初に首を捻った割に、また読んでみたくなるのだ。
矢張、伊坂幸太郎という人は魅力的な作品を書く人なんだな、と思う。
#ちなみに積読には『死神の精度』『チルドレン』が控えている。

以下ネタバレなしの雑感。
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・ 伊坂幸太郎『ラッシュライフ』
ラッシュライフ人と人とは繋がっている。
それは時にバトンをつなぐようにだったり、まったく別の場所で時間を共有していたり。

それをこんなにドラマティカルに、そして緻密に描くとは!

終盤、何度“……え!?”と絶句してページを戻る、ということを繰り返したかわからない。まったくバラバラだとは(勿論)思っていなかったけれど、こんな風に繋がっていたなんて…!と何度も何度も驚嘆させられた。

泥棒を生業とする黒澤。
リストラされ、ひょんなことから老犬と一緒に行動することになった豊田。
カウンセラーの京子。
“高橋”を信じている河原崎。
…こうして書いていても、後半に畳み掛けるように明らかになる彼らの繋がりを思い出して、気持ちがざわざわしてくるほど。それらの繋がりに、ちょっと出てきただけだと思っていた人の人生がさらに繋がって、最後に繋がってゆく。

とにかく巧い、と思った。
しかし何故か読了後に爽快感はなかった…というのが正直なところ。
伊坂幸太郎作品が2冊目で、これの前に読んだものが『グラスホッパー』(関連エントリ)で、テイストが近かった所為か?とも思ったのだけれど、読了後数日考えて、ようやく思い当たった。

文中で何度も何度も出てくる“老犬”という表現に引っかかっていたのだ。
最後までこの表現に違和感を感じながら読んでしまった、というのが爽快感に繋がらなかったのかも、と。
私にとって老犬といえば、少なくとも14歳を超えている犬であり、世間一般に“シニア”と呼ばれるようになる8歳というのはまだまだ若い犬…ということになってしまう。ましてや、作中に出てくる“老犬”は柴系という設定。小型犬と中型犬の境目だとすれば、14歳まではまだまだお元気、というイメェジが払拭できない。
そして、まだまだお元気な盛りでは、作中でふっと見せるような何処か神々しい感じというのは感じられないのではないか…というのが*実感として*あるのだ。

…どうでもええがな、と思うようなところではある。重箱の隅的かもしれない。
でも、作中の犬にどうにも“そりゃあ人間にとって都合がよすぎやしないかね”とちょっと意地悪な気持ちになってしまったのは本当。少なくとも19歳で旅立ったソックさんに、一種の神々しさを感じるようになったのは17歳を超えて、身体が少し不自由になりはじめてからだった。その頃になれば、犬も丸くなり、決して作中に描かれていたような犬ではありえないというのが実感である。
結局のところ、私にとって“老犬”という言葉は実感を伴いすぎた言葉なのだ。
もしも、“老犬”という表現がなかったら、もっと手放しで面白かった、と言えたのかもしれない、とちょっと思う。

それと、もうひとつ引っかかったのは、これはあからさまに『グラスホッパー』を先に読んだ所為なのだけれど、描かれている女性が似通っていないか?ということ。なんとなく同性として感情移入しづらい…というか、ああ、こういう部分あるけど認めたくないなぁ…と感じる女性が登場すると、なんとなく気持ちが重くなる。そのあたりがちょっとつらかった。

しかし、本当に後半一気にバラバラだったピースが繋がっていくさまはとにかく凄い。
決してこの作品は映像化できないだろう。
バラバラだったピースと、バラバラだった時間がひとつに繋がった瞬間、そこにはただただ驚嘆して、呆然とする自分がいる。
本、という表現媒介でなければ出来なかったであろう、という作品に出会えることは、それだけでとてもとてもしあわせなことなのかもしれない。

個人的には、彼らのその後、というのもとても気になる。
いろいろ引っかかるところがあった、という割に、私はやっぱりこの作品が好きなのかもしれない。

以下おまけ。
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・ 川上弘美『ゆっくりさよならをとなえる』
ゆっくりさよならをとなえる人生はかなしい、と思う。
決してペシミスティックにではない。
至極個人的に、思わず“くくく”と笑ってしまう些末なことの後ろ側にある、ちょっとしたかなしみや、さびしさを感じ取ること。その感じたきもちを、なかったことにしないこと。
かなしみやさびしさだけを掬い取って生きているわけではないけれど、そんな風に感じたこころを大切に日々を過ごしたいと、いつも思っている。
だから、人生は可笑しくて、かなしい。私はそう思う。

東京日記 卵一個ぶんのお祝い。』(関連エントリ)を読んだあとにも感じたが、川上弘美のエッセイというのはとても地に足がついていると思う。“今、ここにいる自分”が過去を振り返ったり、“今、ここにいる自分”が何かを好きだと思ったり、“今、ここにいる自分”が何かを感じたりしている。そういう姿勢そのものがとても読んでいて安らかだ。

そして、描かれているのはとても些細なことなのに、極端に近視眼的なところがなく、でも、その描かれた小さなところにとても深く感じ入って、本を置いて考え込んでしまったりする。
全編を通じて安らかなのに、なんだか時折無性にさびしくなったり、切なくなったりする。
描かれているのが身近なことゆえに“なんだか体力の要るエッセイだなぁ…”と読んでいる最中は思ったのだけれども読み終えたあとは、ほんのりしたさびしさを含んだ安堵感が残る、充実した1冊だった。

中でも最も深く“そう!!”と思った“古池”。
そう。そうなのだ。別段何ということが可笑しくて仕方がなくて、“くくく”とひとしきり笑った後に哀しくなるあの感じ。なかなか人に理解してもらえないけれど、どうにも寄る辺なく切なくなるあの感じ。

私はどうにも“おうまはみんな”というあの歌が可笑しくて可笑しくてしかたがない。
だって可笑しいではないか。
“おうまはみんな ぱっぱかはしる ぱっぱかはしる ぱっぱかはしる”
既にここまでで“くくく”と笑いがこみ上げてくる。
でもここはまだ我慢できる。どうにも我慢できないのは
“どうしてなのか だれもしらない だけど おうまはみんな ぱっぱかはしる”
可笑しい。どう考えても可笑しい。“だけど”という接続詞の意味が通っているのか通っていないのかさっぱりわからない。わかるような気もするけどわからない。可笑しい。

でも、こらえきれずに“くくく”と笑った後、どうにもかなしくなるのだ。
実際“ぱっぱか”走っている馬は、人間が“どうしてぱっぱか走るのかしら”なんて考えていることなどものともせずに、たくましく、うつくしい肢体で悠然と駆け回っているわけだ。“ぱっぱか”と。
そこにはいくら考えても及ばぬ壁がある。とてもかなしい。
かなしいではないか。なんともやるせないきもちにすらなる。
“だけど おうまはみんなぱっぱかはしる”のだ。…やっぱり可笑しい。
(2番はもっとストレートに切ない。やっぱりこの歌は1番がすばらしいと思う。)

…私はこの歌の可笑しみを伝えようと、必死に書いているのだが“何言ってんの”という方が殆どだろう。実際、この歌で声を出して笑ってしまう人を私は自分のほかに1人しか知らない。(でも、そういう人が友にいることを私はとてもしあわせに思う。ありがとう。)

まあ、おうまがなぜぱっぱか走るのかはともかく、人生はかなしくて、可笑しい。そして更にせつなさと、しあわせとが綯い交ぜになってできている。だからこそ、小さなことに動いたこころをなかったことにしたくない。そんな風に思えるエッセイ集だった。こころがすかすかのスポンジのようになってしまったときにこそ、ぱらぱらとめくりたくなる、そんな1冊。
人生はかなしくて、さびしくて、可笑しくて、しあわせだ、と思うために。

[参考]
 ・係占い (“カウンターの外側”に登場。私は学級委員だった。当たっている。)
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